先日の新歓で頒布した大学鉄研の会誌に紀行文のようなものを寄稿した(特に駄洒落ではない)のですが、正直新歓誌に載せるだけっていうのもな…という感じなのでブログにもそっくりそのまま載せておきます。しかしながら、生まれてこの方紀行文なんてものは書いたことがないので多少の稚拙さには目を瞑ってください。
ついでに申し上げておきますと、文字数8000字オーバーなうえに前半は殆ど写真がないのでお読みの際はそれなりに覚悟しておいてください。
鉄オタは往々にして青春18きっぷを余らせがちだ。余らせた時の処理方法は人それぞれであり、ある者は金券屋や友人に売るし、またある者は余った分の処理のためにどこかに出かけたりする。
そしてそれは筆者自身も例外ではない。2017年夏、8月末に四国旅行に行くにあたり18きっぷを買ったのはいいものの、埼玉⇔三ノ宮の往復で2日分使ったきり半分以上余らせてしまっていた。もう少し時期が早ければ金券屋に売ってしまうという選択肢もあったが、帰京した時点で既に9月1日。夏の18きっぷ利用可能期間は例年9月10日頃までであるため、今更売っても二束三文に買い叩かれるのは明白である。ならばどうするか?旅に出るしかない。
熟考の末行き先は飯田線に決まった。第一の理由は至ってシンプルで、元々飯田線が好きだからである。もっとも、筆者が好きなのは飯田線の国電であるから、313系が闊歩する今の飯田線には少し物足りなさを覚えてしまうわけだが。
そして第二の理由は「佐久間駅」の存在である。駅そのものは豊橋から63.5km地点、中部天竜の隣に存在し、特筆すべき事項といえば駅舎に図書館が併設されていることくらいの、何の変哲もない1面1線の小駅である。
しかし、この佐久間という駅は筆者にとってある重要な意味を持つ。
突然だが、諸君は「アイドルマスター シンデレラガールズ(通称デレマス)」というゲームをご存知だろうか。詳しい説明は省くが、ざっくり簡単に説明するとアイドル育成ゲームである。最近ではゲーム内の4コマ漫画を原作とした「シンデレラガールズ劇場」という5分枠アニメも放映されていたため、名前くらいは聞いたことがあるという人も多いだろう。
筆者もこのコンテンツのオタクの端くれなのだが、筆者のお気に入りに「佐久間まゆ」というキャラクターがいる。
…これ以上理由を語る必要はあるまい。
そして幸いにも筆者の祖父母は岐阜在住であるため、豊橋まで出て東海道線でひとっ飛びすれば宿にも困らない。そんなわけで、バイトもなく暇な9月の7・8日に帰省を兼ねて行くことにした。
今回は1日目、岐阜までの奇行文、もとい紀行文をお送りする。また今回の旅で写真をあまり撮っていなかった結果、地の文ばかりの読みづらい文章になってしまったことを先にお詫びしておく。
出発当日、9月7日の午前0時。始発で出る日は起きられないのを見越して徹夜することに決めており、この日も同様にTwitterのタイムラインを眺めながら夜明けを待っていた。するとタイムライン上にヤケに佐久間まゆの絵やら何やらが流れてくる。何かと思えば9月7日は佐久間まゆの誕生日なのだという。担当なのに全く知らなかった。とまれ、偶然ではあるがこれは絶好のタイミングである。この日は雨予報だったため佐久間駅で降りるかどうか出発直前まで迷っていた。だが、これは降りるしかあるまい。かくして18きっぷ消化旅行は幕を開けた。
4時54分、最寄りの東武東上線新河岸駅から始発の準急池袋行に乗り込む。朝霞台で武蔵野線に乗り換え、西国分寺で中央線に乗り換える。高尾までは20~30分おきの細かい乗り換えが続く。
6時13分、高尾着。隣のホームに停まる松本行きの211系に乗り換える。
中央東線の211系はロングシートとボックスシートの2種類存在するが今回乗車したのは残念ながらロングシートであった。ここの211系には過去3回乗車しているがボックスシートの車両に当たったのは僅かに1回であるからロングシート車の方が多いのだろうか。流石に長距離運用にはボックスシート車を回してほしいと思うが、甲府の辺りではラッシュ時間帯にぶち当たるし、何より物好きな乗り通し客に対する配慮なんてしていたらキリがない。仕方のないことだと諦めつつ、少しでも居心地の良い場所を求めて車端部の端席に陣取った。
ここから乗換駅の上諏訪までは2時間41分と、一般的にはかなりの長旅である。しかし、普段通学に2時間かけている身としては日課の延長のようなものだ。ましてやこれから飯田線を乗り通そうとしている人間にとっては3時間程度など準備運動でしかない。
高尾を出ると京王高尾線と一瞬並走する。背後の窓から見慣れたピンク色の帯の列車が見えた。京王高尾線ではラッシュ時間帯を中心に、この高尾から東京を横断し千葉の本八幡まで行く列車が多数設定されている。しかもその多くは快速列車であるから、調布までは各駅、調布から新宿までもかなり小まめに停車し、そして新宿からまた各駅に停まっていくのである。もちろんオールロングシート。飯田線よりこれを乗り通すほうがよほど苦行かもしれない。
高尾線と分かれると今度は右側に中央自動車道が現れる。ここから勝沼のあたりまではほぼぴったり右側を並走することになる。しばらくすると中央道の渋滞の名所である小仏を超え、相模湖駅に着く。相模湖を挟んで反対側には遊園地の観覧車が見えたような気がする。
この遊園地には昔行ったことがあるが、観覧車が園内で最も高台にあるため、頂上の辺りでかなりの強風に晒され恐怖を抱いたことを覚えている。
相模湖を出て、次の藤野とその次の上野原の間で県境を越えて山梨に入るとその先は四方津、梁川と地味な難読駅名が続く。北海道などに見られる「そもそも全く読めない」というような難読駅よりも、こういった「一見読めそうで読めない」地味な難読駅の方が凶悪な存在だよな、などと思考を巡らせていると列車は鳥沢に着いた。
この辺りは「大月桃太郎伝説」なる伝承が語り継がれている、と何かで読んだ覚えがある。鳥沢と次の猿橋、また駅名にはなっていないが犬目という地名があり、犬、サル、キジ(鳥)が綺麗に揃っているのが由来だそうだ。よく考えたものだとは思うが、岡山を差し置いて「桃太郎発祥の地」を名乗るのは些か無謀な気がしないでもない。我が埼玉県が香川を差し置いて「うどん県」を名乗ろうとした忌まわしき事件を思い出した。
桃太郎ゾーンを越えると次は大月である。大月からは富士急行線が分岐している。車で行ったことはあるが未だに1ミリも乗ったことがない。富士急と言えば、JR東海の371系を譲り受けて2016年にデビューした富士山ビュー特急がイタリアの.Italoという列車に似ていて格好良かった。内装については賛否両論あるようだが、外観は非常に自分好みであるため一度撮りに行きたいものである。
大月を出ると初狩、笹子の順に停まり、笹子峠を越えて列車は甲斐大和に到着する。ホームには「武田氏終えんの郷」という看板が掲げられている。どうやら武田氏一族が滅亡した天目山が駅の北東にあるらしく、駅の裏手には武田勝頼の銅像もあるのだとか。敗走して自刃した地を祭り上げられたのではとんだ公開処刑である。勝頼・信勝親子の首は京都一条大路で梟首されたそうだが、その数百年後に駅のホームで滅亡したことをでかでかと掲げられるのはそれに勝る屈辱なのではなかろうか。
甲斐大和を出ると相模湖の手前から並走してきた中央道は西に逸れていく。地理の試験問題の常連である釈迦堂の扇状地もこの近くである。甲府までは中央道沿いにまっすぐ西を目指すのが最短経路だが、鉄路は塩山を経由する為か少し北側を遠回りしていく。
甲府の一つ手前、酒折を出てしばらくすると車窓の左側から一本の線路が合流する。身延線である。そしてその少し先には身延線の金手駅が見える。この金手駅は並走する身延線にのみ駅が設けられており、中央本線側にはホームはない。似たような例として、高崎線に対する八高線の北藤岡駅が挙げられる。
そして7時43分甲府着。先ほども述べた通りこの辺りではラッシュ時間帯に差し掛かるため、車内もだいぶ混み合ってきた。地元の学生の姿が多くみられる。
甲府を出たあたりから睡魔との戦いが始まり、気付けば列車は小淵沢に着くところだった。小淵沢からは小海線が分岐している。こちらも未乗なのだが、先ほどの富士急行線全線と小海線の野辺山まで乗れば山梨県の鉄道路線を完乗できるので機会があればぜひ来たいところである。
8時29分小淵沢発。再び睡魔と戦いながら列車に揺られる。
そして8時55分、上諏訪着。乗り換え案内のアプリでは2つ先の岡谷までこの列車に乗るよう指示されていたが、岡谷で乗り換える列車は上諏訪始発なのでここで列車を降りる。
乗り換える列車は反対側のホームに既に入線していた。9時19分発、豊橋行きの544Mである。上諏訪~豊橋間を通しで運転する列車は下り1本、上り2本の計3本あるが、544M以外の2本は金野や為栗などの閑散駅を通過する。しかしこの544Mは、基本的に豊川発着の列車しか止まらない下地・船町以外の全駅に停車するため、距離は213.8km、所要時間は実に6時間57分というかなりのロングラン運用なのである。
列車に乗り込むと、既に車内には多くの同業者と思しき人々の姿が見える。座席はここまでと打って変わって転換式のクロスシートだ。進行方向右側の窓側の席を確保し、駅の売店で朝食を買ってきた。列車に戻ると、ちょうど1番線と2番線に上り「あずさ」と下り「スーパーあずさ」が入線した。この特急からの乗り継ぎ客を拾い、4分後、544Mも上諏訪を出発する。
次の下諏訪では上り列車と交換のため3分停車し、9時32分岡谷着。
岡谷では13分停車するため、窓口に下車印をもらいに行く。ついでに列車の写真も撮っておくことにした。
544Mに使用されるのはJR東海を代表する電車である313系の飯田線仕様、3両編成の1700番台である。以前飯田線を走破した際は岡谷から豊橋までの全区間が313系3000番台で、ボックスシートでの旅を強いられた苦い思い出があるので転換クロスシートというのは非常にありがたい。
岡谷を出ると川岸、辰野の順に停まっていく。岡谷から辰野までの区間は飯田線と運行が一体化しているが、路線データ上は中央本線の支線である。かつての岡谷・塩尻間は辰野を経由するこちらのルート、通称大八廻りが本線だったのだが、1983年の塩嶺トンネル開通によって本線はみどり湖経由に変更となり、辰野経由のルートは支線として残されたという歴史を持つ。
辰野に着いてふと左を見ると見慣れない車両が停まっている。JR東海の事業用車であるキヤ95系「ドクター東海」であった。在来線版「ドクターイエロー」というべき車両である。どうやらこの日は飯田線の検測をしていたようだ。初っ端から珍しいものを見ることができ、幸先の良いスタートである。
辰野からはいよいよ飯田線に入る。飯田線は他のJRのローカル線に比べ、平均駅間距離が2.1kmとかなり短い間隔で駅が設置されているのだが、これは飯田線が元々私鉄であった名残である。
次の宮木駅では、電柱に設置された第3種駅名標の文字が完全に消えてしまっていた。取り換えた方がいいのではなかろうか。
10時15分、伊那松島に到着。伊那松島は箕輪町の中心駅であり、伊那松島運輸区が併設されている。かつては伊那松島機関区を名乗り多くの旧型国電が配置されていたが、1983年の旧型国電引退と共に車両の配置は豊橋機関区に集約され、車両無配置の乗務員基地となった。
伊那松島を出ると列車は雨の伊那谷を進んでいく。駅に着くたび、車掌がホームの端から端まで走って集札しているのが見えて大変な仕事だと思った。
伊那北、伊那市と伊那の市街地を抜け、しばらく走ると沢渡に着く。この沢渡と次の赤木の間にはJR線の最急勾配である40パーミルの坂が存在する。かの碓氷峠が66.7パーミルであるから、かなりの急勾配であることが分かる。
最急勾配を超え、赤木の次の宮田で上下交換のため8分ほど停車する。対向列車は213系の2両編成であった。
宮田を出ると名撮影地として知られる太田切川の橋梁を渡り大田切駅に着く。川の名前は「太田切」だが駅の名前は「大田切」らしい。非常に紛らわしい。
大田切を過ぎると駒ヶ根に到着である。時間と列車の本数さえあれば駒ヶ根名物のソースカツ丼でも食べていきたいところだが、残念ながらどちらも足りない。今度来た時の楽しみに取っておくことにする。
駒ヶ根を出た列車は小町屋、伊那福岡に停車し、田切のオメガカーブに差し掛かる。その名の通りギリシャ文字のΩ(オメガ)のような形を描いてカーブしているのが由来である。このような線形となった理由については話せば長くなるのだが、簡単に言えば技術や費用の兼ね合いで川の上流に橋を通すために迂回した結果らしい。
オメガカーブを越えた先が田切駅である。現在は築堤上の高架駅だが、これは1984年に移転したものである。それ以前のホームは150メートルほど北側にあったそうである。
田切を出てしばらく列車に揺られていると、車掌が検札にやってきた。18きっぷを提示する。こういったローカル線の場合、集札の関係なのか車掌に降車駅を尋ねられることが多い。この車掌にも当然尋ねられたのだが、車掌の口から発せられたのは「終点までですか?」という言葉。この列車の乗客の猛者の多さが窺い知れる一言であった。
その後しばらく居眠りしており、気づけば列車は伊那八幡に停車中であった。いつの間にか飯田を越えていたらしい。
反対側からやってきた特急伊那路とここで交換する。
12時48分、天竜峡着。駅のホームに置かれたライン下りのマネキンに思いっきりガン飛ばされていた。写真だと見えづらいが、顔が明らかに洋風なのもなかなかシュールである。
天竜峡からは渓谷沿いに走る。架橋工事中のような建造物が見えた。
天竜峡の次の千代、その次の金野はいずれも1日あたりの乗降客数が1桁のいわゆる「秘境駅」であり、一部の普通列車はここと田本・為栗を通過する。しかし、早朝の駒ヶ根始発の快速列車はこれらの駅に全て停車するため、種別の逆転現象が起こっている。
13時41分、小和田着。北海道の小幌駅と並び、秘境駅として非常に有名な駅である。この日は深い霧に包まれており、より一層秘境感が醸し出されていた。
この先、向市場~城西間にはこれまた撮影地として有名な第6水窪川橋梁が存在する。別名「渡らずの橋」として知られ、水窪川の左岸から右岸に向かったかと思うと、そのまま右岸に着かず左岸に戻っていくという非常に珍しい構造の橋梁である。元々左岸にトンネルを通す予定だったが、地盤が不安定だったため断念し、このような橋を架けたのだという。
渡らずの橋を過ぎれば佐久間駅まではもうすぐである。城西、相月と停まっていき、いよいよ次が佐久間駅である。
そして14時7分、今回の旅の目的地である佐久間駅に到着。
列車を見送った途端、止んでいた雨が再び降りだした。地味に運が悪い。
さて、すっかり忘れていたが先程も述べた通り9月7日は佐久間まゆの誕生日である。そして「デレマス」の派生アプリである「スターライトステージ(通称デレステ)」には、誕生日を迎えたキャラを祝うことができる機能が実装されている。
こんな感じ。佐久間まゆさんお誕生日おめでとうございます。
となれば、やるべきことはただ一つ。
やったぜ。これにてミッションコンプリートである。旅の目的が9割方達成されて喜んでいると、列車を降りた時に降り始めた雨が強くなってきたため急いで駅舎に逃げ込んだ。
駅舎の外観はこの通りである。右側が浜松市立佐久間図書館になっている。
そのため駅舎内に常に人はいるのだが、駅自体は無人駅であるため、図書館では一切の駅業務は行っていない。簡易委託駅くらいにしてもいいのではないかと思うが、コストもかかるうえすぐ隣が中部天竜であるためその必要はないのだろう。
雨が弱まった隙を見計らって昼食を確保しに行くことにした。駅から歩いて2分程度の所にある軽食屋で五平餅とタコ焼きを買ってきた。
2つ合わせて800円程度だっただろうか。この地における飲食店の貴重さと腹持ちの良さを考えるとコスパは悪くない。
せっかくなので図書館にも少し寄っていくことにした。
入ってすぐのところに飯田線コーナーが設けられていた。さすがは地元である。
そしてこの飯田線コーナー、嬉しいことにずっと読みたかった旧型国電の本が置いてあるではないか。ついつい読みふけってしまい、気づけば時刻は15時を回ろうとしている。
佐久間駅の次の上り列車は16時半頃なのだが、隣の中部天竜駅まで歩けば15時半に発車する始発列車に乗ることができる。佐久間から中部天竜までは、飯田線の秘境地帯にしては珍しく比較的容易に歩くことができるので今回はそのルートを使うことにする。その為にはそろそろ歩きださねばならない。名残惜しいが、図書館に別れを告げ中部天竜を目指す。
ちなみに図書館で出会った本は帰宅中にAmazonでしっかりポチった。
中部天竜までは橋の横の歩道を歩いて行くのが最短経路である。横を列車が通ったらさぞかし迫力満点だろうが、本数が少ないこの区間ではよほど運がよくないと遭遇できないだろう…と思っていた矢先、突如踏切が鳴り出した。まだ橋を渡る前だったため、こんな時間に下り列車なんてあっただろうか…と思いつつ橋の方にスマホのカメラを向けると、なぜか背後から走行音が聞こえてくる。
なんと辰野で見かけたキヤ95が上ってきた。どうせ普通列車だろうと思ってカメラを取り出さなかったのを非常に後悔したが、間近で見られただけ万々歳である。
キヤ95は豊橋方面へ走り去っていった。
興奮冷めやらぬまま対岸へ渡ると道が左右に分かれている。勘に任せて左に進んだのだが、見事に道を間違え駅舎の裏に出てしまった。
ものの見事に駅の反対側である。面倒臭がらずに地図を確認すべきだった。
どうにか中部天竜駅にたどり着いた。駅名の読みは「ちゅうぶてんりゅう」だが、天竜川対岸の地名は「なかべ」と読むそうだ。駅が開業した頃は地名・駅名共に「なかっぺ」という読みであったらしい。
この中部天竜にもかつては中部天竜機関区が併設されていたが、伊那松島同様豊橋に統合され1985年に廃止となった。跡地には佐久間レールパークという鉄道博物館があったのだが2009年に閉館し、展示車両の多くは金城ふ頭のリニア・鉄道館に移されている。余談だが、この佐久間レールパーク、名前のせいか隣の佐久間駅にあると思っている人が多かったらしい。
中部天竜から乗る豊橋行きは213系5000番台である。この車両も転換クロスシートだ。乗客は自分を含めて僅かに3名程度であった。
15時30分、定刻で中部天竜を出発。走り始めて20分、地元の祭りで使われる鬼の面を模した駅舎が特徴的な東栄駅から愛知県に入る。前回飯田線を走破した時はこの辺りで完全にグロッキーになっていたことを思うと、この1年半の長距離通学でかなり耐久力が培われた気がする。
16時10分、湯谷温泉着。1300年前に鳳来寺の開祖、利修仙人によって発見されたという伝説が残っている温泉なのだが、この仙人は温泉の優れた効能によって300年近く生きたのだとか。
湯谷温泉を出て10分ほどで本長篠に着く。地名の通り長篠合戦の舞台となったのはこの辺りであるが、ふと朝に通ってきた甲斐大和の「武田氏終えんの地」という看板を思い出した。合戦に敗れた武田氏一族は、鉄道など当然ない時代にこの長篠から遠く甲斐大和まで逃げ延びたのだからたいしたものである。
本長篠を出て新城の辺りからはだんだん市街地に近づいてくる。東上というやけに親近感の湧く名前の駅を過ぎれば豊橋まではもう10駅足らずである。
17時10分に小坂井を発ち、名鉄線との並走区間に入る。先述の通り、ここから豊橋までの2駅、下地と船町には豊川以遠から来る列車は一部を除いて殆ど停まらない。名鉄の列車も全列車が通過となる。始発で出てから約12時間、この2駅が本日初の通過駅である。
そして17時16分、ついに終点の豊橋に到着。無事2度目の飯田線制覇を達成した。駅の売店で祖父母への土産を買い、17時32分発の新快速で岐阜を目指す。車両は313系5000番台。313系のフラッグシップ的存在である。
豊橋を出てすぐ、名鉄のパノラマスーパーと並走する。いつの間にかリニューアル車ばかりになり、旧塗装は風前の灯火だという。
飯田線ののんびりした車窓も楽しかったが、東海道を120km/h近い速度で快走するのも非常に気持ちがいい。帰宅ラッシュの中京圏を突っ切り、18時50分に岐阜に到着。
岐阜からは祖父母宅の最寄りである各務ヶ原へ向かうべく高山本線に乗り換える。やってきた下麻生行きはキハ75の3両編成。ラッシュ時の詰め込みには不向きな転換クロスシートの車内はそこそこ混み合っているが、運よく座ることができた。
19時09分、カミンズ製エンジンの爆音と共に列車が動き出す。ここまでの旅路に思いを馳せつつも、その一方では早くも帰りの旅程を組み立て始めてしまう筆者なのであった。